東日本大震災復興への継続的支援について

-
助成先
-
公益社団法人 日本国際民間協力会(NICCO)
-
助成事業
-
宮城県名取市「閖上(ゆりあげ)の記憶」の運営
※ 「閖上の記憶」についてはこちらをご覧ください。(公益社団法人 日本国際民間協力会NICCOホームページ)
公益社団法人 日本国際民間協力会NICCO
手前が「閖上の記憶」、奥が「閖上中学校」
惨状をありのまま伝える写真の数々
「閖上中学校」へ続く道。
たくさんの方がこの道を走って、
校舎へと向かわれたのでしょう。
波に押し潰されたガードレールが今も生々しく残ります。
「閖上の記憶」を訪問することが決まり、ホームページ等で予備知識は得たつもりでした。
閖上中学校遺族会が建立した慰霊碑を守る社務所、記帳所であること、写真や動画、現地ガイドなどで震災の被害を伝える資料館であること、被災した地元の方による語り部の会やワークショップを開催し、心のケアを行う場所であることなど。
実際に訪れてみると、「閖上の記憶」の名の通り、閖上の人々が愛する土地への「記憶」や「追憶」が町の「空気」そのものになっていて、自分の身体を包んでいることを感じました。
それは写真や記述からは得がたいものであることを身をもって感じましたが、一人でも多くの人々がその場へ赴くきっかけになることを願い、また、日本全体が永く復興支援を継続していくための記録として、ここに遺します。
「閖上の記憶」はプレハブ造りで、津波でほとんどが更地になってしまった周辺の中にあっても、気づかずに過ぎてしまうかもしれないほど小ぶりな建物です。
第3土曜日のこの日は、館内で、被災した児童への心理社会的ワークショップ(「表現」を通して心の整理を進める活動)の一環として創られた映像作品が上映されており、出演した地元の子供たちをはじめ、来訪者の方々が鑑賞されていました。
その後、案内人である小齋正義さんに、地区内をガイドしていただきました。
「閖上中学校」
「閖上中学校」の生徒たちの慰霊碑
生徒たちが使っていた机に託されたメッセージ
消防署の建物は残りましたが、震災当日は停電により
サイレンが鳴ることはありませんでした。
2012年3月11日、「閖上の記憶」のすぐ側にある「閖上中学校」の敷地内に、同校に通っていて津波の犠牲となった中学生14名のための「慰霊碑」が建立されました。これはお子さまを亡くされた保護者の方々が、子供たちがこの地に「生きた証」を残したい、知ってほしいと立ち上がり建立まで辿り着いたものです。
慰霊碑は、1mほどの高さで作られており、犠牲となった14名のお名前が、子供の目線からでも読めるように刻み込まれています。天まで届きそうな「碑」ではなく、あえて低く建てることで、刻まれた名前を訪れた皆さんに直接触ってもらいたい、摩擦で刻字が消えるくらいまで撫でてもらいたいとの願いが込められています。
建立後、慰霊碑は亡くなった生徒たちやご遺族のためだけでなく、閖上を思う人々の心の慰めにもなり、絶える事なく花や飲み物、千羽鶴やぬいぐるみなどが届けられています。
震災当日は、小齋さんもこの閖上中学校に避難されました。
津波だけでなく火災も起こり、町が燃え続ける景色を見ながら越えた一晩の記憶が、一番のトラウマになっているそうです。
「観音寺、東禅寺付近の墓地跡」
墓石も押し流され、どの墓標がどの位置にあったものか、照合することも難しくなってしまいました。倒壊し散乱した墓石は、政教分離の観点から名目上は「がれき処理」として扱う選択肢しかなかったのですが、片付けにあたった業者の方は、「がれき」として扱うことなく、ひとつひとつ運搬してくれたそうです。
観音寺の副住職は、過去帳を取りに戻ったために津波の犠牲になりました。副住職の犠牲を惜しみながら、「自分たちのルーツも流されてしまった」と語る小齋さんが印象的でした。その後、檀家さんたちの手によって可能な限り御骨が集められ、現在は別の場所に一時保管されています。
「閖上漁港付近の海岸」
修繕中の防波堤を登ると、潮の香りが漂い、津波の猛威など想像できないほど穏やかな海が広がっています。「ここまで津波が来るわけがない」と考え避難しなかった地元の人々の思いも当然に感じるほど、水平線は遥か遠くに、のんびりと続いています。
この潮の香りも景色も、多くの人々にとって苦しい思い出となってしまったことを思うと、やりきれない気持ちになりました。
「日和山」
閖上地区は平地であることから、昔の漁師さんたちがこの高台を作り、ここから天候を見て漁に出るかを決めていたのではないかと言われている人工の山です。
観音寺、東禅寺、そして湊神社が被災し、心の拠り所がなくなってしまったことを惜しみ、地元の宮大工さんががれきの中から自らの道具や木材を回収し、コツコツとほぼお一人で作業し新たな「湊神社」としてこのお社を建立されました。
ガイドの中で、小齋さんは、語ってくださいました。
起きてしまったことは受け止めるしかない。次は、伝えていかねばならない。
我々が歴史(過去の大津波)から学ばなかったことが今回の被害の拡大を招いた。
逃げる途中で巻き込まれた人もいる、身動きが取れないお年寄りも大勢飲み込まれた、寝たきりの家族を置いていくことができずに亡くなってしまった方もいる、閖上で犠牲になった、または今も発見されていない方々を含めた約800名の命には、800通りのかたちがある。
高齢者、弱者が犠牲になる社会を、これからは救えるしくみにしていかねばならない。
その語り口は、天災に対する怒りや悔しさの中にあって、それらを感じさせない慎ましやかなものでした。
それは小齋さんのお人柄に加え、犠牲者への、閖上への、そして語り継ぐことで救える未来の命への「祈り」が込められているからなのではないかと、感じました。
最後は再び閖上の記憶へと戻り、NICCOのスタッフの方にお話を伺いました。
皆さんがこの土地に来てくださること、心を寄せてくださることがありがたい。
けれども、傷を負った被災者の方の中には、来て欲しくない、そっとしておいて欲しい、と感じている方もいる。そのことも受け止めた上で、支援をいただきたい。
この土地の人々は、今は普通に生活を送っているように見えても、全員が被災という「背景」を背負っているんです。
閖上地区は、東西に1.5キロ、南北に1キロ程度の小さな地域です。
その小さな中で、749名もの方が亡くなり、いまだ41名の方が行方不明のままです。
住民の皆さんの負った傷は、到底想像することができません。
閖上地区では、居住区域の地盤全体を約3mかさ上げしての土地区画整理事業が計画されているものの、未だ41名の方が見つからないままでのかさ上げに心を痛める人もいるそうです。
この地に戻りたいと願う人、戻れないと感じる人、どちらにしても時間がかかり、諦めて別の土地に移る人。
閖上に暮らして来られた人の数だけ、想いがあります。
帰路につく際、「閖上の記憶」の周囲には人々が集い、花を植えていました。全国からの支援によりこの「閖上の記憶」が生まれました。
これからもこのように人が集まり、花が咲き、笑顔が増え、いつか新しい閖上地区へと再生を遂げますように。そう願いながら、閖上の地を後にしました。
レポート2へ